2007年07月26日
総会記念講演会報告
タイムラグがあり、大変申し訳ないですが、首里城公園友の会記念公園会の概要を紹介
内容は、友の会会報より転載です(文責は私・・・)
首里城公園友の会・総会記念講演会
500年前の沖縄移住ブーム‐那覇にあった「日本人町」‐
上里隆史氏をお招きして・・・
総会記念講演会では、法政大学沖縄文化研究所国内研究員の上里隆史先生による「500年前の沖縄移住ブーム‐那覇にあった「日本人町」‐」をテーマに講演が行われました。上里先生は、友の会文化講演会における最年少講師になりますが、会員をはじめ大勢の方々が集まり、超満員の会場で大盛況に終わりました。その講演概要を紹介します。
古琉球の那覇を描いた「琉球国図」によると、浮島状の那覇に久米村の他、「日本人・本島人(琉球人)」の家が存在し、日本人の長期滞在施設(居留地)が琉球人と雑居していることが確認できます。古琉球期の那覇は、中国人居留地の「久米村」を中心に、日琉雑居の那覇(西・東)・若狭町・泉崎が囲む状況が概念的に捉えられます。
「日本人町」があった痕跡として、禅宗寺院や地蔵堂など日本的施設が那覇に集中しておち、若狭町の波上熊野権現やヤマト人墓地などが、その存在を裏付けています。また、那覇に移住していた日本人として、朝鮮・琉球間を往来する博多商人や堺商人、琉球以外に活動拠点があるが琉球に妻子を持ち長期滞在する大隈の役人、さらに王府の士族として召し抱えられて琉球社会にとけこんでいった人物など、多くの事例が確認されるとのことです。
こうした琉球への日本人移住の背景として、十五世紀には中国・東南アジア産物の入手のために来航していたのが、十六世紀以降は、日本から東南アジアへ向かう民間商人の中継地として利用されたことにあります。民間レベルでアジアの交易が活発に行われ、十六~十七世紀には、日本人町が東南アジアの各地に造られており、那覇の「日本人町」も海域アジア世界における「日本人町」の一角として位置していたのです。
さらには、交易に関わる日本人を通じ、古琉球社会に日本文化が流入し、影響を受けていました。例えば古琉球辞令書や碑文などには、中世日本の候文や平仮名が確認できます。しかし当時の日本は和洋漢文が専ら公文書で、平仮名は私文書でしか使用されませんでした。つまり、琉球の公文書に見られる平仮名文は、日本から流入した文化を活用しながらも独自の文書形式をつくりあげた結果であり、日本の「古層文化」がタイムカプセルのように眠っていたわけではないわけです。
さて、那覇の「日本人町」の存在は新発見の事実ではなく、戦前の研究者によってすでに指摘されていました。それではなぜ、「日本人町」は一般に知られず、忘れられてしまったのでしょうか。それは戦前までの研究において、「単一民族・一国史観」という考え方からその存在を評価されていなかったことにあります。また、日本との文化的親近感や雑居していた状況から、あまり目立たなかったという点もあるようです。上里先生は、「交易国家である琉球では、出自・ルーツが重要なのではなく、南西諸島に住む人々が「琉球」という主体を自らつくりあげたことこそに歴史的意義があり、従来の一国史観の再来ではない、「ヤマト」を含めた新たな琉球史像の構築が必要である」と講演のまとめとして強調しました。
今回の講演は、古琉球(中世)の時代における、国境を越えたアジア世界に位置する琉球や日本の存在を、発想の転換によって改めて確認できるものでした。上里先生は実は「目からウロコの琉球・沖縄史」で有名な「とらきち」さんなのですが、実は私の大学の後輩だったりします・・・。優秀だよな~。
内容は、友の会会報より転載です(文責は私・・・)
首里城公園友の会・総会記念講演会
500年前の沖縄移住ブーム‐那覇にあった「日本人町」‐
上里隆史氏をお招きして・・・
総会記念講演会では、法政大学沖縄文化研究所国内研究員の上里隆史先生による「500年前の沖縄移住ブーム‐那覇にあった「日本人町」‐」をテーマに講演が行われました。上里先生は、友の会文化講演会における最年少講師になりますが、会員をはじめ大勢の方々が集まり、超満員の会場で大盛況に終わりました。その講演概要を紹介します。
古琉球の那覇を描いた「琉球国図」によると、浮島状の那覇に久米村の他、「日本人・本島人(琉球人)」の家が存在し、日本人の長期滞在施設(居留地)が琉球人と雑居していることが確認できます。古琉球期の那覇は、中国人居留地の「久米村」を中心に、日琉雑居の那覇(西・東)・若狭町・泉崎が囲む状況が概念的に捉えられます。
「日本人町」があった痕跡として、禅宗寺院や地蔵堂など日本的施設が那覇に集中しておち、若狭町の波上熊野権現やヤマト人墓地などが、その存在を裏付けています。また、那覇に移住していた日本人として、朝鮮・琉球間を往来する博多商人や堺商人、琉球以外に活動拠点があるが琉球に妻子を持ち長期滞在する大隈の役人、さらに王府の士族として召し抱えられて琉球社会にとけこんでいった人物など、多くの事例が確認されるとのことです。
こうした琉球への日本人移住の背景として、十五世紀には中国・東南アジア産物の入手のために来航していたのが、十六世紀以降は、日本から東南アジアへ向かう民間商人の中継地として利用されたことにあります。民間レベルでアジアの交易が活発に行われ、十六~十七世紀には、日本人町が東南アジアの各地に造られており、那覇の「日本人町」も海域アジア世界における「日本人町」の一角として位置していたのです。
さらには、交易に関わる日本人を通じ、古琉球社会に日本文化が流入し、影響を受けていました。例えば古琉球辞令書や碑文などには、中世日本の候文や平仮名が確認できます。しかし当時の日本は和洋漢文が専ら公文書で、平仮名は私文書でしか使用されませんでした。つまり、琉球の公文書に見られる平仮名文は、日本から流入した文化を活用しながらも独自の文書形式をつくりあげた結果であり、日本の「古層文化」がタイムカプセルのように眠っていたわけではないわけです。
さて、那覇の「日本人町」の存在は新発見の事実ではなく、戦前の研究者によってすでに指摘されていました。それではなぜ、「日本人町」は一般に知られず、忘れられてしまったのでしょうか。それは戦前までの研究において、「単一民族・一国史観」という考え方からその存在を評価されていなかったことにあります。また、日本との文化的親近感や雑居していた状況から、あまり目立たなかったという点もあるようです。上里先生は、「交易国家である琉球では、出自・ルーツが重要なのではなく、南西諸島に住む人々が「琉球」という主体を自らつくりあげたことこそに歴史的意義があり、従来の一国史観の再来ではない、「ヤマト」を含めた新たな琉球史像の構築が必要である」と講演のまとめとして強調しました。
今回の講演は、古琉球(中世)の時代における、国境を越えたアジア世界に位置する琉球や日本の存在を、発想の転換によって改めて確認できるものでした。上里先生は実は「目からウロコの琉球・沖縄史」で有名な「とらきち」さんなのですが、実は私の大学の後輩だったりします・・・。優秀だよな~。
Posted by りゃん at 20:20│Comments(0)
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